【映画 「日日是好日」】感想。季節を感じる映画。

季節のように生きる。

自分の余命宣告を受けた後に出演を決めた作品だということを読んだ。

そこには主演が誰かということにこだわり、「黒木華」が主演が決定して樹木希林さんの出演が決定となったとあった。

黒木華さんは公開にあたり「樹木希林さんとの共演は「財産になる」」と。

20歳から44歳という24年間の女性を演じているが、自然でそれでもきちんとその年齢を感じることが出来たと思う。

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樹木希林さんの思い

希林さんご自身も茶道の経験はなかったようだけど、「教わる」演技と「教える」演技では「教える」方はまず自分が教えるだけのものを習得しなければいけないから大変だったのではないだろうか?

この映画は「茶道」を通して日本の四季をとても意識したものとなっている。

黒木華演じる典子は大学3年生から物語はスタートする。

同じ年の従姉妹の美智子役が多部未華子。二人とも「華」が名前にある女優さんだったのね。

典子と美智子は性格がまるで違う。

典子は良く言えば真面目。それでも理屈っぽくておっちょこちょいで不器用。

大学でやりたいことを探していて何も見つけられないと言う。

美智子は逆に竹を割ったようなタイプで明るい。

それでも近所のお茶の先生のところに二人で行くことになる。

そのお茶の武田先生が樹木希林さんだ。

最初は二人だけの教室。

帛紗(ふくさ)のさばき方

武田先生は基本を大切にしようと丁寧に教えているのだろうが、二人は「なぜ?」が頭に引っかかると先に進めない。

今の人に多い。

動作に意味はあるけど、最初から意味を知るよりもまず「型」を覚えてそれから「心」が入るからと言われて、納得できない。

「見て覚える」とあるが、見る前に一緒に完成がわからない動作は苦手だ。

まずお手本で「こうします」「では一緒に」と言われるとまだいいのだけど。

帛紗捌きが終わり、ちり打ち。ここでも「なぜ?」と聞く二人。先生は「なぜかしらねぇ〜」とその行為に深い意味はないのだと言うことなんじゃないかと思うが、それでもそれがしきたりというものだったりするのだろうね。

まずは「習うより慣れろよ」と言うが、頭がパニックな典子は楽しめない。

茶室に入ろうとするところからダメ出しの連続。

畳の歩き方も畳一畳を6歩で進んで7歩目で次の畳に行くようにと言われるが、歩くことすらままならないことに質問の連続。

武田先生は「意味なんてわからなくていいの。お茶はまず”形”から。先に”形”を作っておいて、その入れ物に後から”心”が入るものなの」と伝えるが、美智子は「それって形式主義じゃないんですか?」とこれまた意味のわからない返答。

武田先生としても「なんでも頭で考えるからそう思うのねぇ」と笑って受け流す。

世代としたら私と同世代の女性の四半世紀ということになる。

自分もきっとあの時代に「お茶」を始めたら、同じように頭で考えて理解しなければ先に進めない人間だったように思う。

典子は真面目で不器用なだけに自分がまるで赤ちゃんのように何も出来ないことでお茶をなかなか好きになれない。

それでもなぜか土曜日にはお茶に行く。

1ヶ月くらいでやっとちょっとだけ先生の言っている意味の端っこが理解できた瞬間を感じる。

頭で考えなくても手が覚えるから

大人になるとわかるのだけど、最初にいろんなことがわかるわけではないからまずは流れだけでも俯瞰で体感できるといい。

そうすると次の段階へ行きやすい。

仕事でもまずわからないなりにも資料を作成する。

そうしないと私が何をどこまで理解できていて何が正解か誰もわからないから。その資料を元に指摘をしてもらう。

人生なんてそんなものだと思う。

頭で理屈をこねる前にまずは見よう見まねで進めていけばどこかで自分の中に落ちてきている瞬間が見つかるはずだから。

ちょっと慣れた頃にお茶の教室がお休みになり美智子は旅行でお茶を休むという。

「一人で行くの嫌だなぁ」典子って・・・大丈夫か?

誰かに誘われたから、誰かが居るからと言うことで何かをしたことがない自分には典子はあまり理解の出来るタイプではなかった。

それでも嫌だと言いながらもお茶に行く典子。

典子の嫌の根本はやっぱり「真面目で不器用」なんだろうね。

器用さを求められているわけでもないのだけど、出来ない自分を知る行為が嫌ってことなのだろうか?

場面場面で季節の移り変わりがある。

二十四節気が表示され、掛け軸が変わり、床の間のお花が変わり、庭の雰囲気が変わる。

少しだけお茶の世界に慣れた頃、大規模なお茶会に参加する。

そこは想像していたような雅な世界ではなくて女性のバーゲンセールのような女性車両の席取りのような様相。

そこで本物の茶器の味わい方を教わる。

美智子は就職しお茶をやめる。

典子は出版社でアルバイトをしながらもお茶は続ける。

お茶を始めて2年くらいしたとき、梅雨の雨と秋雨の音の違い、掛け軸の文字の意味を考えるのではなくて、「絵」として眺めることで楽しめることに気づいてくる。

不器用な人間は同じところでずっと学ぶことができる。

私のような器用な人間は「器用貧乏」と言って結局は何も続かない。

典子は10年続けた頃にやっと限界を感じる。

それは15歳の少女の存在だったり、自分の成長のなさだったり。

10年も続けると自然、その場所では意見を求められる。

しかし何一つきちんとした知識を伝えられない。

だから続けられるのかもと思うのだけど。

武田先生もそんな典子に「工夫というものをしなさい」と指摘する。

重たい言葉。

武田先生にしても自分が教えた10年の重みをまるで流されてしまうことはキツイのではないだろうか?

器用に最初から出来る人間は居ないが、10年も一緒にいれば勝手に成長を求めてしまう。

が、私にしてみたら会社でも半分は優秀だけど半分は結局この典子のようにただ居るだけじゃないかと思うし、残るのはこのただ居るだけの分野の人だ。

なぜなら会社で役職につけるのは同年代の一握りであり、自分に可能性を感じればそこ以外の場所を求めるだろうから。

結局典子は結婚間近で相手の裏切りという表現だったが、浮気が発覚してそれを流すことが出来ずに終わらせた。

それは成長だと思う。

真面目で不器用そのものでもあったとは思うけど。

そして1年ちょっとで新しい恋人が出来てもお茶は続けていた。

33歳でやっと一人暮らし。

父親役が鶴見辰吾。

お茶の帰りに実家に寄ってくる娘を待っている。

夕飯を一緒に食べられると思っていたが、娘は彼氏と約束をしていた。

ある時、出かけようとしている典子に父親から電話が。「近くに来たから寄ってもいいか?」

出かけるからと切ってしまった電話が気になって夜に実家に電話するが、父親はもう寝ていた。

翌日なのか?

母親から電話が入る。

父親が倒れたと。

何事も後悔というのはこういうことなんだろう。

そして典子はお茶を始めて24年が経っていた。

武田先生から「お茶を教えることで教わることがある」と言われる。

ただただ真面目に続けている人間が師範になる。

そういうものなのだろう。

器用な人間はあまり師範という人には向いていないのかもしれない。

不器用な人間が教えることも不器用ながらも身体が覚えていることをきっと伝えていくのだろうと。

希林さんの存在感は「お茶の先生」と言う立場で若い人に残す言葉のように聞こえた。

言葉の一つ一つ、希林さんが大切にしていたものがセリフにのって伝えられているように感じた。

典子の人生の大部分がお茶になったストーリーではあるが、もう少し欲を言えば希林さんよりのストーリーになっていて欲しかったかもしれない。

どのシーンでも「涙」はない。

「感動」というものもあまりない。

淡々と、ただ淡々と四季の移り変わりの中にお茶の世界があり、人々の成り立ちがあるそんな映画だと思う。

だから淡々とした人生に感動はないが、セリフの中に生きていく上で大切なものがたくさん散りばめられていたと思う。

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