小学校のスポーツ少年団
小学校のスポーツ少年団に5年6年と入った。
チームは既に出来上がっていた状態だったけど、身長が高かったこともあり、期待をされて5年生でそれなりになって6年生ではエースだった。
そんなチームだった。
今思うと
小学生時代、世はまさにベビーブーム。体育館には小学1年生から6年生まで何人くらいいたのだろう?
私の学年は9人だった。
5年生はもうちょっと多かったはず。
4年生は13人くらい居たように記憶している。
それだけで30人。だけど、小学3年生以下もチョロチョロたくさんいた。
それをバレーボール経験もなかった一般の方が監督を引き受けてらした。
その人は同級生の父親だった。
多くの大人が関わってすべての学年に合わせたメニューを行っていた。
すごい時代だったよなぁ〜。
私は普通の家庭環境ではなかった。今で言えば(当時もか?)イジメの対象となれるような感じだった。
それでも、私にはそんな記憶は微塵もない。
その分、多くの大人が自分の子供のように思ってくれていたということが重荷でもあった。
2ヶ月前。まさかみんなが集まるなんて誰も想像にもしてなかった。
でも、仲間の一人が倒れ、奇跡的に助かったとは言え、いつどうなるかわからない世代になったことを認識していた。
そこに監督の「老い」の認識が加わった。
同級生の親であるわけでそろそろみんな「介護」を意識する年齢だ。
小さい頃の意識のままだった私も現実を考えた。
「訃報で集合するのはヤダ」
この一心だった。同級生である息子からも監督の「老い」を心配する声が出てきた。
多分、集まるきっかけを作ってくれたとも言える。
そして連絡を取り合った。私が知っていたのは倒れた仲間と他に3人だった。
そしてその3人からまた違うメンバーへと連絡がつき、1週間で全員と連絡を取ることができた。
ネット時代、繋がることが容易になったように思うが、そんなことはない。
IT格差がある。スマホは持ってるけど、SNSに登録なんてしていない。
それでもママ友から教わるのかLINEはやっていた。
私はLINEは入れない主義でそれは変えられず、掲示板を立ち上げた。
でも、それに書き込みができないことも知った。それをフォローするメンバーが居たことも。子育てしかしてこない女性なんてそんなものだよねって思った。
それでも、みんな頑張って私の作った掲示板に書き込みをしてくれて、連絡を取り合うことができた。
わずか1ヶ月半で再会を果たすことができた。
それまでは書き込みだけで意思の疎通がなかなか取れない感じもあり、投げ出したい気分でもあった。
大体、自分は幹事とか取りまとめをするタイプではないから。
盛り上げるとかもない。ただ、みんなが喜ぶことは何かを考えることだけだった。
地元に戻ると突然の強風に寒くて驚いた。昼間が暑すぎてダウン系の上着も持たずに行って後悔していた。
そしてお店の開店より前に駐車場に集まった8人。
「あ!」
全然変わらない顔が並ぶ。
そして私も。
11人が集まり会が始まった。
私はカメラマンになっていた。久しぶりにカメラを出して使い方忘れてたのだけど。
強くカッコ良かった監督も80を前に涙もろくなっていた。
私達を指導してくれていたのが40歳。自分の40歳と比較するとすごい人だったと改めて尊敬してしまう。
35歳くらいから50歳くらいまでを費やしたのだろうか?
私は自分の後輩がどこまで続いていたのかは知らない。
それでも今はもうないわけだからどこかで終わったはずだ。
それでも私達のように全員が集まる世代はないのではないだろうか?
私は恵まれた仲間に入れたと思った。
最初に書いたように「いじめ」られてもおかしくない境遇だったはずだ。
それでも私はそんな記憶はどこにもない。
それは彼女たちの親が本当にいい人しか居なかったのだと思う。
監督がそういう雰囲気がまるでない人だったから周りにはたくさんの人が集まっていた。まぁ保護者なわけだけど、みんなで自分の子も他の子も同じように面倒を見るという風習のように感じた。
古き良き時代と言うことだろうか?
結局は私は6年生になった時にはエースとなりレギュラーになる。
それを小さい頃からやっていた他のメンバーはどう思っていただろう?
私が居なければレギュラーは他の子だったかもしれない。それでもそれはなにか言われた記憶はない。
唯一言われたのは中学生になってすぐだな。
同じチームじゃない中学の部活になって入っていた人は自分に才能があるなしでもなく、2年生になれば、先輩がいなければ自分がレギュラーになれると思っていたのだろう。が、中学1年でレギュラーにされた自分たち。
まぁそれなりの成績を小学生で収めてしまっていたからね。それでも3年の先輩の中でするのは本当に嫌だったけど。
まぁ私が過ごした小学5年6年は月水木土日は練習なわけで。
土日はいろんなところに遠征に行った。
東京まで連れてきてもらったりした。
関東大会で優勝をすることもできた。
全国大会には行けなかったけど、県内で2位だった。
それもこれも監督のおかげだという意識がいつでもある。
その監督がやっぱり普通に年を取ってきている。
寝たきりでもないが、それでも食欲がなくなりお酒とタバコだけで過ごしているらしい。
言ったところで行動が変わる人ではない。
ただ見守るおばさん。
それを見守る息子。
それを感じた会でもあった。
8人の仲間が集まり、テーブルが2つ。どう別れる?と思ったら、古株メンバーから順に1つのテーブルに6人で座って、監督家族プラス私ともう一人になった時は「あぁ〜、人間変わらないわね。」と思った。
社会人経験がない女性陣はそういうところだと自分の居心地の良さを優先するものだ。
しかも隣にいる人も小さい頃のまま。
面白いなぁ〜。
まぁそれでもみんなはみんなで仲間との再会を楽しみにしていたわけでそれでもいいかなとも思っていたけど。
監督はそれでもみんなと再会し、昔を懐かしんで喜んでおられただけで私は満足だ。
食欲がないと外野が心配している監督から「おい、食べろぉ」と食べることを催促されちゃうという逆転現象。安心した。
関係性が変わらないままなんだよね。
私が食べているのか?そんなことを気にしてくれる。
私は大人になっている気持ちだけど、相手からしたらいつまでも息子じゃないけど、子供のままのようだ。
そして私が会を開いたと思って感謝をしてくれていたが、感謝したいのは私の方で、監督が元気で居てくれたことでみんなが元気に再会ができたのだから。
来年の再会を約束して。
1年を大切に生きていこうということです。