原作を読んだときには映像化は難しいと思ったけど
今年のGWに原作を読んだときのブログ。
読み終えてから映像化されることを知り、母親が篠原涼子、父親が西島秀俊ということで納得していた。
それ以上に子供たちの演技のレベルがとても高くて驚いた。
子供の演技が良かったから
一番大変だったのはなんと言っても脳死状態でずっと目をつぶったままの状態だった瑞穂役の稲垣来泉ちゃんだろう。
彼女の声がほんとに可愛らしい。
最初のシーンでお母さんに絵を渡すシーンが彼女の最大の見せ場となった感じだけど、その後も見事に「脳死」状態で居続けたと思う。
母親の薫子の熱演を肌で感じても動けないもどかしさ。
息をするのも自分の呼吸ではない感じにしなければならず、普通肺の動きなんて気にしないだろうけど、大げさに演技をしなければならない。
あとは生きた状態での人工呼吸器。実際には動かしていないだろうけど、あれは大変だっただろうなぁ〜ってそれしか考えられなかったわ。
物語は原作から少し映画用にアレンジをされている。
それでも大筋は変わらない。
脳死を言われたものの受け止めきれずに「生きている」とした親の願いのまま懸命な延命処置を施す病院。
日本の「死」に対する矛盾。
脳死判定を受ければ脳死の段階で死亡が確認されるがそれ以外だと心臓が止まったときを持って死亡が確認される。
日本人は宗教というものに対して海外ほどのものはないから余計なのか?
また6歳の子供とどの親が「臓器提供の有無」について話し合いをしている?
マニュアルだと言っても悲しみの傷に余計に塩を塗り込むようなことをされているんだなって思った。
「脳死判定」「臓器提供」
とても重い課題が根底にある。
そして研究者の欲望。
その中で一人、研究者星野役の坂口健太郎の恋人役の川栄李奈が普通の人だった。
瑞穂を取り巻く人間はすべて自分のための行動だ。
母親の薫子は子供の死を受け止めることをせずに自宅看護に踏み切る。
そこには薫子の母親役の松坂慶子の助けがなければ叶わない。
それでも娘をプールに連れていききちんと見てなかったという責がどこかにある。
そしておばあさんも責められることで自分の責任を逃れられると錯覚する。
父親の西島秀俊は自分の会社の技術を娘のために利用し始める。
それは別居し、どうにか離婚には至らなかったもののやはり妻子に対する何もできないことへの代わりだろう。
そして妻へまやかしの期待を与えてしまう。
研究者の星野は自分の研究を薫子がとても喜ぶ姿を見て、錯覚を始める。
自分は第二の父親だと。
機械の力で動く身体。意思のない中で動かすことに何の意味がある?
正気になれない人々にはまるで通じない概念。
それを星野の恋人は播磨に直訴する。「彼氏を返してください」
彼の行っていることは彼が本当に目指したかったものなのか?
自分の存在までないがしろにしてまでするものなのか?
自分の意思ではない笑顔に何の意味があるのだ?
一番可愛そうだったのは弟の存在だろう。死んでいるようにしか見えない姉のことでいじめられてもおかしくない。
それを母親は聞かない。
父親もずっと居るわけではないからほんと気の毒でしかない。
そして従姉の若葉。プールの事故は自分だったかもしれない。そして助けることが出来なかった。ずっと心に溜めていた思い。
いろんなものが交差していく。
それでも最後に希望が残る。
原作と同様、オープニングに登場した男の子がエンディングにも登場する。
映像だと移植された心臓が導いたような描写でそういう感覚なんだぁって感じ。
でも、そこに家はない。