はじめに
先日、高校時代のチームメイトと話すことがあった。
彼女との付き合いは古い。
私がバレーボールを始めた時から一緒だった。
その彼女はまだバレーボールに関わっているという。
すごいな。
話を聞いていて、とても興味をもった。
今の時代に何が伝えられるのだろうか?
今の時代
ゆとり世代の弊害
「ブラック部活」という言葉が世間的に一般的になってきている。
日本のオリンピック出場種目が減少していくのかもしれない要素を含んでいるが、それは誰も言わない。
現在の全日本女子バレーの中田久美監督でさえ、今の時代に合わせた指導をしているように感じる。
平成という時代は良くも悪くも「競争」という概念を低下させた時代だろう。
競争をしない「ゆとり世代」が日本の骨格になっている時代に世界に立ち向かえるわけもない。
それでも「ゆとり世代」直前世代だった、木村沙織さん時代までは世界に少しだけ通用した。
まさかオリンピックでメダルを獲れると思ってなかった。
すごい強さではないが、日本らしい勝ち方だった。
「助け合う」
そんな印象の残ったチームだった。
中学バレー
公立中学の部活動。バレーボール経験者の先生が全部の学校にいるわけもない。
それでも学校の先生という職業の人は、未経験であってもそこで生徒のためにと思える方がまだ存在しているということなのだろう。
外部から経験者のコーチを招聘する。
それは何の補完なのだろう?
技術の補完?
知識の補完?
中学バレーを手伝う彼女は先生の熱意に敬意をはらうものの、時代のギャップなのか理論先行の考え方なのか、しっくりときていないようだ。
私は他人事なのだろう。
ただ笑って聞いている。
「感覚派の彼女」という表現は少し違う。感覚というよりも動くために何が必要なのかを考えて、マラソン選手のような走り込みをしていた。
筋トレをしていた。
決して上手なタイプではないが、いろいろな努力でカバーをしていた。
そんな彼女にしてみたら、「理論派」というのは「机上の空論」のように感じているのだと思う。
それでも何のためにバレーをしているのか。
せっかく練習をしているなら勝たせてあげたい。
その気持ちは二人とも同じくらいある。
合理的な守り
彼女の理解できない先生の考え方に
「合理的な守備」
がある。
私たちの時代、ポジションがあるが、ベースラインから前に出るという考えが主流であった。
それが今は3・3の守りであってもある程度、ミドルラインに配置しておくというもの。
そう、
「配置しておく」
守るというより、手の届く範囲に来たら取るというようにさえ思える守備。
だから、選手と選手の間にボールが来た場合、なぜか取りに行こうとしないことを一番懸念している。
バレーボールコートは広い。
ただ立っていて届く範囲なんてたかが知れている。
でも、1歩ずつ歩み寄るだけでぶつかるような感じでもある。
私の記憶にある練習はひたすら左右で守っている状態から自分なのかわからないボールの処理を連携してぶつからないように。その後に邪魔にならないようにする練習が繰り返されていたようだった。
それがいざ試合になれば「阿吽の呼吸」で生かされる。それがバレーボールなんだと思っていた。
でも、配置するバレーはその前段階をどうするのかが彼女も先生もわからないのが現状なのか?
しかも思考が未熟なようだ。
中学3年生、2年生、1年生の混在チーム。
助け合うではなく、落ちたボールの位置で責任のなすりつけあいを始めるという。
本人たちは次にどちらが取るかの確認なのかもしれない。
それでも、それは確認ではなく、自然と誰でも同じようにできるようにするのが「チーム」なんだと思う。
頭のいい理論派の先生と会ってほしいんだ。
うーん、噛み砕いて説明できるほど人間できてないぞ。
それでも生徒には「なぜバレーボールしているの?」って聞いてみたい。
可能性は生徒の中にあるのだから。