きっとどこでもある話
山崎努さんが70歳設定はちょっと厳しい感じがしてしまった。
今の70歳のイメージは昔の60歳くらいのイメージ。
みんなお元気。
いつ引退するの?って感じの経営者の方が大勢いるから。
悲しいけど勉強になるのだと思う
山崎努さんがお父さん、お母さんが松原智恵子さん。
長女の麻里が竹内結子さんで、次女の芙美が蒼井優。
こんな家族居るんだろうなぁって感じ。
厳格な父親とそれを支える妻と。結婚して子育て、夫婦のあり方を模索する長女と結婚を考えながらも自分の夢を追いかける次女って。
蒼井優は家族ものの映画には必ず居るイメージが大きい。(「家族はつらいよ」シリーズのイメージが大きいから?)
この映画の主演。次女の立場から家族のあり方を模索するってことか。
父が70の誕生日に母は娘を呼び出す。
麻里は海洋生物学者の夫、北村有起哉とアメリカで暮らしている。なかなかアメリカの生活に慣れない中、息子の崇の方が会話も不自由なくなり、孤立した感じになっている。
そんな中、日本に戻る。
そこで久方ぶりに会った父の変化に気づく。
芙美が作ったレーズン入りのポテトサラダから一心不乱にレーズンを抜く父。
男性ってレーズン嫌いな人多いよね?なぜだろう?
妻は夫の変化に半年前から気づきながら、娘には何も伝えてなかった。
2007年の夫の誕生日から物語が始まり、それから2年が経過する。
芙美は軽自動車でカレーの販売をはじめる。
移動販売って簡単じゃないよね。料理がうまいだけでは人は寄ってこない。せっかく来たお客様にもトッピングの紹介をするのに早口でまくしててしまう。
それでは客がひいてしまう。
たった半月でバイトの子に辞めてもらわなければならない状態に。
麻里が息子の崇と帰国。父を心配しての帰国だが、「家に帰らなきゃ」という麻里に夫は「家に帰るってどういうことだ?」と聞く。そう、アメリカの家が帰る場所じゃないのかってことなんだけど、ありがちな会話な気がする。
崇はおじいちゃんとの対応もそれまでを知らないから案外スムーズだ。もともと教師だったことで漢字の読み書きはまだ出来ていた。
崇が昼寝をしている間におじいさんの姿が見えない。
帰宅した麻里は崇を怒るが、崇にそこまで要求するのはどうだ?と思ってしまった。
おじいさんの「認知症」という状況をどこまで理解している?
崇が歩いているおじいさんを見つける。川原で3人で仲良く何かを食べているのを麻里が見つける。
おじいさんを見つけたのが麻里の同級生だった。
同級生の道彦が中村倫也。
それをきっかけに付き合う。
それからまた2年後。
リアルに東日本大震災を絡めて。
アメリカではきっと日本以上に放射能の危険性が報道されていたのだろう。
日本ではある程度報道規制があったのだろうと思う。
アメリカの芙美は母に外出するときの注意を伝える。雨の日には出ないようにと言っても「トイレットペーパーがないから」と外出する。
毎日雨じゃないわけでそんな可及的速やかに必要なものか?と思ってしまうのだが、認知症のすすんだ人と買い物に行ってはいけない。
その間、じゃあどうしたらいいのか?
認知症だからと言っても何をしてもいいわけでもないし、理解がすすんでいるわけでもない。
認知症の人に善悪の区別を求めたい気持ちもあるだろうけど、それが出来ないのが認知症であり、もっと社会としての取り組みが必要なんだと思った。
子供以上に大変なのかもしれない。
結局、引き受けをするのは芙美になる。普通の社会人なんてしていられないね。
子供が熱を出した以上に大変な問題になるんだろうな。きっと。
芙美は同級生の道彦の母親が経営するお店で働いていた。そして道彦の母から自分の息子と結婚してお店を継いで欲しいと言われる。
返事をしようとしたところでお客様が来て宙ブラリ。
そんな中、道彦の離婚した妻から子供が会いたがってると連絡があり、道彦は会いに行く。様子を伺いに行ってしまう芙美。そこには元妻と子供、そこに道彦の母までが集まっていた。
裏切られた感じでしかない芙美。
そこに母からSOSの電話。
父が「帰る」と言って聞かないと。どこに帰りたいのだろう?
父と縁側で座り、芙美は自分はうまく「築けない」と話しかける。
どこかに行ってしまっている父だが、それでも優しさは残っているシーンだと思った。
麻里は崇とのコミュニケーションに悩んでいた。
夫は冷静だ。それが「家族」としてどうなのか。麻里は不安であった。
崇の学校に呼び出され子供の不登校の原因は親の不仲にあると言われる。それを日本語にしてと言う麻里に適当に答える夫だが、麻里は「ちゃんと教えて」と言う。
そして、「自分は家族のことをもっとちゃんとしたいのに」と不満を爆発させ、それを先生にきちんと訳すようにと言うが、「そんな恥ずかしいこと」と渋る。そんな夫に突然キスをする。
呆然とした北村有起哉が最高。
母が網膜剥離で入院するということで芙美が父の面倒を見ることに。
母はかなり渋る。自分がしなきゃと入院をしたがらない。
それでも母は入院し、芙美が父の面倒を見ることに。子供のシモの世話よりも大人のシモの世話は大変だろう。
食事も進まない父。
なぜか読んだ本を破って食べる。
芙美の努力とは別に父に大腿骨の骨折が見つかり、母と同じ病院で入院となる。
うつ伏せ状態でいなきゃいけない母ではあったが、父の病室へ行く。
何も言わない夫だが、「お父さん、膝貸してね」とうつ伏せになった妻の頭を優しくなでる。
夫婦だなぁ〜ってことなんだろうね。
麻里がビデオチャットでお父さんと話したいという。何も言わない父に何を言いたかったのだろう?
途中で寝落ちした麻里に帰宅した崇は毛布をかける。
そしてチャット先におじいちゃんが居ることに気づき、手をあげる。それに答えるおじいちゃん。
その後、誤嚥性肺炎で危ない状態になり麻里が帰国することに。それを送る夫は迎えに行くからいつでも連絡するようにと言う。
仕事で今まで顧みてもらえなかったのだろう。その優しさに涙し、差し出されたハンカチを「これ、キレイなの?」と言う。夫は「君がいつもキレイにしてくれているだろ?」と。
誤嚥性肺炎の説明で出てきた先生は小市慢太郎。安心の小市慢太郎だね。
人工呼吸器をつけるつけないで娘は勝手に「お父さんだったら」と意見を言い合うが、母は「勝手にお父さんのことを決めないで」と初めて強める。
そして父の誕生日を行う。なぜか三角帽子を被るのがお決まりらしい。
最後がモヤモヤの展開。まぁ察してよってことなんだろうけど。
崇が学校で呼び出される。留年ってことなのか?
日本の場合だとなぜ学校に来ないのか?と聞く場面で「君のことを教えて欲しい。今朝、何を食べたとか」といい、「自分はクリームチーズとはちみつのベーグルで高カロリー摂取だと妻に怒られた」と言う。
崇は「おじいさんが亡くなりました」
と伝え、おじいさんは漢字をすごく知っていてと自慢する。それを聞いた先生は「あの象形文字か?」と。
そっかぁ〜。そういうイメージなんだ。
そして認知症であることを伝えると「長いお別れだったね」と。
ゆっくりと記憶がなくなる。ゆっくりなのか?人は生きて物事を記憶し、その記憶を元に生きる。それがどこの時点で終わりになるのか?この世から次へ行くのに必要じゃないことは置いていくということなのか?
崇は結局、それ以上は語らず「失礼してもいいですか?」と出ていこうとすると、「君の不登校はおじいさんが関係しているのか?」と聞かれる。「それはないです」と答える崇。
そこで終わる。
主題歌の優河の「めぐる」がとてもこの映画にフィットしていて心地よかった。