【映画 竜とそばかすの姫】カンヌでの評価

なりやまない拍手

14分もの間、拍手がなりやまなかったということがニュースに出ていた。

海外の人はこの映画のどこに何を感じたのだろう?

映像と音楽?

アニメということで、ストーリーとともに評価されるのはやっぱり表現だったり、技術だったりになるのだろうか。

そしてそこにこの作品には「音楽」がすごい大きさで感動をくれる。

ストーリーの世界観を理解されなかったとしても視覚的、聴覚的にはいろんなものが伝わるのかな。

この映画にはインターネットという世界の闇が描かれている。

すずのお母さんが命を落とした事故。

インターネットの中では事故の詳細を知らない人間がなぜか誹謗中傷を書き込み炎上している。

母親がした行為は愚かなことだったのだろうか?

毎年、何人もの人が同様の事故に巻き込まれて救助しようとした側が命を落とすケースも珍しくない。

その時、私も思っていたかもしれない。「なぜ他人を助けようとして」と。そこにはすずのような子供がいるかも知れない。

「お母さん行かないで」と泣きながらすがっても母は自分の正義のままに動いてしまう。誰もが母親の行動を愚かだと思ってしまうが、どうしたらいいのだろう?

弱い人を助けなさい

そう言われて成長し、親になって保守的になる人もいると思う。

それでも動いて結局その行動を批判されなきゃいけない言われはないはずだ。

仮想世界には警察組織がいない。その中で勝手に正義を振りかざし、自分たちにとって「悪」だと認定した者を排除する団体が発生し、そこに協賛が集まる。

彼らのしていることは果たして「正義」なのか?

竜が暴れたとして大人数で寄ってたかって締め付け、素性を明らかにする行為は許されるものなのか?

今の日本ではそういう場面が多数ある。

犯罪が起これば、警察が発表しない情報までもがすぐに白日のもとに晒される。

それは「正義」なのか?

そして家族までもを追放しようとする。

明日は我が身とは思わないのか?

未来なんてわからないのに、なぜ人々は少しのミスも許さないとなっているのだろう?

私のツイートひとつももしかしたら他者を傷つけているのかもしれない。

その積み上げが炎上ということになるのかもしれない。

それでもそれを煽る行為がなければ炎上まではいかないはずだ。

そして最後は家庭内DV。子供を執拗に攻撃する父親。

「助ける」と言って何も「助けていない」ことがストレスになっている子供。

「助ける」という言葉なんていらない子供がきっと今この瞬間にもたくさんいるのかもしれない。

大人の汚い支配の中で息を潜めて時が経つのを待っている子供が。

すずの状況も良いとは言えない。母親の死後、母親の行動に対して「なぜ?」が膨らみ、自分は必要なかったと思い込み、自己表現が出来ない状況になっている。

父親はそんな娘に対して何も出来ない。父親も同じだからなのかもしれないけど。

すずは決して一人ではないが、自分に自信を持てない人の特徴「自分なんて」に縛られていく。

仮想世界でも最初は「何あれ」と関心を得られなかったが、一人がフォローしたのだろう。歌声に魅了されていた人はすぐに増えていく。最初の一人に誰がなる?ということもあるのだろう。

最後の時間軸がちょっとわかりづらいんだけどね。

高知から何で二子玉まで行ったの?的な。電車で?新幹線使って?

細田監督はこの作品に何を込めていたんだろう?

10年後、インターネットの世界はリアルに細田監督の描いた世界に近づいているのだろうか?

10年前よりも仮想世界がわかってきた感じではあるが、まだ身近には感じてない。それは私が年をとって興味を持つことがなくなっているからか?

映画の中のように年齢を取っていても誰もが参加しているような感じになるのだろうか?

「あつまれどうぶつの森」なんかはかなり近いものなのか?

アバターが居て、世界中の人が交流して。それぞれが仮想世界でもうひとりの自分を作り上げている。

ツイッターだって結局は別の自分を作ったりしているのかもしれないなと。私のツイッターは知人友人の類にはアカウントを言っていないわけで。だから発信できることがあるのだと思っているのだけど。