【映画 あちらにいる鬼】感想。どの立場の女にもなりたくないな

娘から見た父親という存在

この原作を書いたのがまさか、娘だとは思わなかった。

娘から見た女性に奔放な父親とそれを容認するかのように待つ母親をどう思っていたのだろう?

一般常識では図れない関係性

一番の違和感は豊川悦司が40代を演じているというところ。

豊川悦司演じる白木篤郎はそれでも豊川悦司じゃなきゃダメだと思う。

若い頃から積み重ねた豊川悦司の持っているエロスがこの役に説得力を与えているのだと思う。

カッコいいだけではダメなんだと思う。

モデルとなっている瀬戸内寂聴さんは自分が認識した時点では既に出家後であり、尼僧であった。

それでも100歳間際までお元気だった秘訣はやっぱりご自身の奔放さもあったのではないだろうか?

映画化ということで表現もソフトになっているのではないかと想像する。

実際なんてもっと男女の関係が深くそれが家族公認という形に変化していったということになるのか?

娘であるこの作品の著者の井上荒野と瀬戸内寂聴さん自体が交流があって作品を仕上げるにあたり、瀬戸内寂聴さんに聞き込み等をしていたというのだから、一般的にはなさそうな展開だ。

自分の父親が息をするように嘘を吐き、女性を抱きまくり、自身の不倫相手のお見舞いに妻を行かせるという地獄絵図のような展開。

もし現在に存命であったら、あっという間に炎上しているタイプよね。

結局、別れられないからと生きながら死ぬことを選択する。

出家して、人として落ち着いた余生だったのだろうか?

51で出家。その後、同じくらいの年月を尼僧として作家として生き、従三位。不倫しようと何をしようとってことなのか?

この男に出会う人生が地獄でどの立場でも関わりたくないと思った。

関わってしまえば最後、モノの良し悪しでは図れない力に自分がのまれてしまうのだから。