Xという存在
TwitterがXと名称変更されてまぁ普通に旧Twitterとかってことになって受け入れられているけど。
フォローしてないのになぜかいろんなポストが流れてくるのだけど・・・
自分だったら?
私が最初に見たのは、なぜかイオンシネマが発表した文章だった。
その後に、その発表した原因のポストが流れてきた。
とりあえず読んだ。
私も観た映画。それを観たあとに悲しかったという投稿。
でも、なんかずれてないか?それが私自身の感想だ。
トランスジェンダーが根底にある題材の映画ではあるけど、うーん。うーん。
翌日になったら、いろいろな人が感想をポストしている。
私のところに流れてくるのは、私と同じような意見のものが多かった。
でも、それでいいのか?とも思えるし、だからと言ってどうするんだ?とも思う。
一人のインフルエンサーの身勝手と思う投稿からもしかしたら、もっと住みづらい社会に急速に舵が切られそうな気もする。
私自身、マニュアル人間に対してあまり良い気がしない。それでも、会社が従業員を「守る」ためにマニュアルがあるのではないかと考えるようになった。
イオンシネマの件は、あっという間に代表格の人から謝罪の文章がポストされた。その裏側はどうなっているだろう?
彼女がポストするきっかけを作った人。 受け止められた人によって言葉は湾曲する。それでも自分の知らないところでマニュアル以外の対応が常習化。それは決して良いことではない。それを伝えただけ。伝え方なんてきっと何であっても自分に不利なことを伝えられたら、人は拒絶しかない。
過去にしてもらえたことに対しての感謝がない。まぁそうなっちゃうよね。だって、1度してもらえた。ラッキー、これは未来永劫してもらえるんじゃないって思ってたわけだから。
イオンシネマなんてアルバイトで廻しているような場所なわけで、聞き取りとか自分が悪かったとか思わないようにしてあげて欲しいわ。
私は車椅子エリアの後ろで観ることが多いのだけどね。音がダイレクトに来るのが良くて。まぁ身体にガタがきているくらいだけだから、あまり身体に対しての不調を感じたことはないのだけど。 それでも身体の自由が効かなくなっている人には厳しかったりするのかな・・・。
一応、健常者ではあるけど、年齢を重ねたら階段が不安になってくる。そうすれば自分が選ぶ席は自分で行けるところになる。それは当たり前のこと。まぁ車椅子の人は映画館に決められてしまっていることが不満ということはあるのかもしれないけど、それでも私の行く地方の映画館でさえ、車椅子席は最前列の真ん中だけどね。
一人で映画館に行ける。そして自分の観たい映画を楽しむ。
あくまでも一人称で出来ることがサービスを受ける前提だと思う。
さて、難しい時代とは、社会は一応昭和の時代よりは障害者に対して考えられてきていると思う。昔の映画館なんてきっと車椅子で観るなんてことは考えられているようには思えないから。
私は結構映画館に行くことが多い方だと思うけど、それでも車椅子の人を見かけることはほんとに少ない。分母の問題なのだと思う。健常者だってどのくらいの割合の人が映画館に常に行くかって。だから、割合として車椅子エリアは2席分とかになってるのだけど。そのたまにしか訪れることのない人たちのために映画館はしっかりと準備はしている。
でも、それ以上のサービスは論外だわってこと。もし仮に目が見えない方が映画館に来ていて、白杖をついていたら、大変そうならお声がけはするかもしれない。それでも車椅子には近づくことはしない。私には車椅子を押した経験はないから(自分が乗ったことはあるけど)
弱者に優しくないと思っての投稿かもしれないけど、弱者に優しくするのは当然と言う感覚だと多分、社会はもっと窮屈で優しくないものになっていくだろうなと思う。
まぁ老いていく自分もそういうことを考えながら生きていかなきゃいけないようになっていくのだろうと思うけど。
他人に頼ることはいけないことではないけど、それを当たり前とすることは絶対にないことだということ。