【映画 泣く子はいねぇが】感想。子供が先か、親が先か

大人になるということ

この映画は、男鹿の伝統文化の「ナマハゲ」を通じて家族とかというものを描いているのだけど、個人として、人はどのタイミングで「大人」になり、「親」になれるのだろう?

多くの人が抱える問題

日本はシングルマザーが多い。

結婚しないで子供だけ出来て、男が結局責任を取らないまま、女性だけが妊った命を育む。

多くの女性は10ヶ月をかけて、親になる覚悟をしていくのかもしれない。

中には、覚悟もないままに子供を産み出すことまではしても、大人にもなれてないから結局は助けを求めることもなく、見殺しになることもあるわけだけど。

この映画は一人の少女の誕生から始まる。

大晦日なのか、市役所の休日窓口に出生届を提出に来るが、何も知らないままきっと言われるままに来たのだろう、担当の人の言葉に対する反応がかなり薄い。

休日窓口で届ける時ってコピーとる?

あぁ、その頼りない夫のたすく役が仲野太賀。妻のことね役が吉岡里帆。

子供じみた夫。

妻はきっと妊娠中もずっと夫に対して「いつ大人になってくれるのだろう?」と心配だったのだろう。

そして自分と同じに子供が出産すれば大人になるのではないか?と期待した?

人の成長って難しいね。

誰がいつどうやって大人になるのか。

大人になるってどういうことなのか?

出生届のコピーを見る妻はそこにミスがあることを見つける。

「こんなことも出来ないの?」

わかる。うん。わかるわ。ほんと「なんで?」ってことが出来ないんだよね。

自分から動こうとしない。

言われたからやる。って、別にそれはそういうものではないはずなんだけど、なんかそういう感じになってしまう。

妻にしてみたら、出産したばかりで子供が泣いて眠れてないのだろう。

そんな中で自分を助けることもせずに、子供が泣いてもあやし方がまだ身につかず、結局自分がしなければいけないことなどあれば、「限界」を感じるのが普通だ。

その「限界」を伝えても、大人ではなく、ただヘラヘラしている人間には他人を思いやるという部分がただ欠如している。

お兄ちゃんが、弟が出来た嬉しい!って言っているのとなんら変わらない。

そんな中、その雰囲気が険悪だということだけは察知しているのか?それでもとても普通とは思えないが、「なまはげ存続の会」の集まりに行くという。

会長の夏井役が柳葉敏郎さん。今も秋田在住なんだよね?まぁ大仙市と男鹿市で文化的な部分は同県で他県よりは知っているくらいなんじゃないのか?と思うけど。

でも、やっぱり秋田弁がしっくりするよね。(標準語を聞いたことないし)

たすくはことねがいい顔をしないのを承知でなまはげ保存会へ行く。その際、妻は「お酒飲まないよね?」と釘をさす。

なまはげって文化をあまり知らないわけで、初めて見た感想は

「幼少期にこれをされた子供はPTSDにならないのか?」って感じだった。

なまはげに対していろんな思いがあるってことを夏井が言うわけだけど、まぁ大家族が集まる中で、子供の成長を祈るっていう構図はあるのだろうけど、それでも、子供・・・気の毒だ。

酒を飲み、大声をあげる。

最悪な存在でしょ?鬼って言う存在を神化しているけど、最悪でしょ。

たすくも最初のビールを飲むところは妻の言葉が過ぎったのだろうが、1杯飲んだらあとは止まらない。

親友の志波役が寛一郎。

たすくはテレビカメラでなまはげの存在をテレビで取材されているところで、なぜか全裸でなまはげのお面をかぶって街中を走り回る。

テレビに映し出された醜態。

場面は2年後、東京になっている。

「あぁ逃げたのね」

瞬時に思った。それでも東京の生活の中で馴染めないながらもフットサルを楽しむ。

が、酔い潰れた女性役の古川琴音を家に連れ帰る。

「あぁ華ちゃん」な古川琴音がちょっと大人な役なわけよ。

男を襲う?的な。

まぁなぜか離婚しているが、「子供が居る」と逃げるたすく。

志波が東京まで来て、ことねの現在の状況などを告げる。

そこでもなぜかタイミングやら周りの空気を読まない行動で、居酒屋でいざこざに巻き込まれる。

あぁ大人にならない人って結局、視野も狭いままなんだ。

志波の言葉に故郷に戻る。

実家があるのはいいことなのか?

母親役が余貴美子さん。お兄さんが山中崇さん。

お兄さんの「どの面下げて」って言うのがその通りなんだろうなぁ〜。

なまはげ存続の会とかそういう風習が残っている地域ってことで、何かあれば村八分になりうるってことで。

弟が逃げた後、兄や母はどうしていたのだろう?と思う。

2年ぶりに戻り、元妻を探し始めると同時に仕事を探そうとするが、ない。

夏井がその姿を見つけ、2年分の苦情を読めを突きつけるが、読むこともせず、謝って逃げる。

謝るって難しい。

たすくの謝るは軽い。相手には通じない。大人になろうとした第一歩の行動なわけだけど、それを教える大人がまた居ない。

教わることではないのか?

周囲を見て、身につけていくことなのか?

志波に仕事を求め「なんでもする」と言いながら、することは中途半端。

ことねを探しだしたが、ことねは再婚するという。

「ことねは再婚を止めてもらいたいと思っているはず」

なんだろうね。この勝手な思い込み。

ただ、娘に会いたいという気持ちはずっとある感じで勝手に娘の発表会の場へ行くが、3歳になった娘が会っても居ないのにわかるはずもない。

親としての感情があるから娘を求めてるのか?

娘に会いたいという気持ちが暴走する。

なまはげの衣装で一人、再婚相手の家庭へ乗り込む。

元妻はなぜか家に入れる。

娘に向かって「泣く子はいねぇが〜」を大声で叫ぶ。

実父として出来る最後のことだったのか?

なまはげの叫びをどう受け止めて欲しかったのだろう?

なまはげの叫びで泣く子供を支えたのは再婚相手の新しい父親で、その父親の覚悟を求めに行ったってことなのか?

佐藤快磨監督の

「ナマハゲ」は、子供をただ「泣かせる」ということではなく、親が子を「守り」、子を守ることで男の心を「父親にする」行事なのではないかと思い至りました。「ナマハゲ」を通じ、精神的に成長していく主人公を描くことで、「父親になるとはどういうことか?」を表現したいと思いました。

という言葉でそう思っただけだけど。