【映画 ディア・エヴァン・ハンセン】感想。その嘘はただの優しさの形

誰でもその場になったら・・・

息子を亡くした家族にすがるように「友達」であることを求められたら、「自分は違う」と言える人はどのくらい居るのだろう?

ミュージカル系?

なぜミュージカルになっているのだろう?

まぁ音にのせた方が本音を言えるってことなのだろうけど。

日本でもそうなのかな?

アメリカでは高校生で既にうつ病を認識して薬を処方されている人が多いの?ってことに驚いた。

日本だとうつ病ってきちんと処方されないまま引きこもりってことにさせているような気もするのだけど。

だからと言って、健常者とそれ以外には隔たりはある。

それ以外の人は疎外感、孤独感を感じ、どうしても他人との関わりが苦手ということになるのだろう。

エヴァンはセラピーの一貫で自分に宛てて手紙を書く。

それが「ディア エヴァン・ハンセン」

同級生のコナーはやっぱり学校では浮いた存在。

弱気なエヴァンとは対照的に粗暴な面で浮いている感じ。

自分宛に書いた手紙をコナーがなぜか持っていってしまう。

そして、あっちはギプスには友達にサインされるというのが風習なのか?コナーはエヴァンのギプスにサインを書いてしまう。

エヴァンはそれからという物SNSに公開されるのではないかと気が気じゃない日々だったが、数日後、突然呼び出される。

そこにはエヴァンの書いた手紙を手にしたコナーの両親。

コナーはこの手紙をポケットに入れた状態で自殺したという。

両親は思うだろう。

まさかセラピーでこういうことが行われていることなど知らないわけで。

「あなたはコナーの親友だったのよね?」

半分以上、脅迫に近い状態の質問。

この状態で本当のことを言える人間は、人間じゃないと思う。

嘘は良くない。それでも、その場限りだと思えば、それが最良だと思う。

が、コナーの両親は裕福であり、コナーの粗暴な面に手こずっていたこともあって、自責の念をエヴァンに押し付けているようにしか思えないが、コナーにも友達がいたのねを強調したい両親。

妹はエヴァンが好意を寄せていたゾーイ。

ある意味、ゾーイの存在がなければこうにはなってなかったのだろうと思う。

でも、コナーを追悼しようと言う集会が開催される。

その過程までに彼の嘘は積み重なってしまっていて、エヴァン自身も押しつぶされそうになっている。

もう、何が真実なのかわからない状態。

そして、創作した友情ストーリーをスピーチしている途中でグダグダになり、歌い出したことでそれは感動になる。

多くの人が共感をしたことで、二人の友情物語が出来上がってしまう。

クラファンで果樹園を再開させようとか、いろんな思惑が渦巻く。

エヴァン自身もコナーの家族の自分への対応が求めていたものと感じてしまい、もっと喜ばせようとしたのだろう。

が、エヴァンの母親はそんなエヴァンを心配する。

エヴァンにしてみたら、母親にとって自分はうつ病を心配される存在であり、コナーの両親はそれを知らない状態で普通に接してくれることが良かったという。

嘘をついてごまかすことを積み重ねた結果、結局は自分で嘘を認めて謝ることになる。

それでも、あの状況で嘘を強要されていたと誰でも思う。

最近、中学校で同級生を刺殺した事件があった。

被害者生徒の言い方がキツかったという報道がある。

加害者生徒は嫌な思いをしたからと供述しているという。

どちらの人生も終わってしまったのだと思うが、親はどこまでどのように干渉して制御しなきゃいけなかったのだろう?

被害者生徒の言葉遣いについて親はどう考えていた?そのことで傷つき、憎悪を膨らませることを予見しなかった?

殺していいことはないが、もし、他人への思いやりというものが少しでもあれば殺意までにはいかないのではないのだろうか?

この映画も親のあり方についていろいろ考えさせられる描き方をしていると思う。アメリカだろうと日本だろうと変わらないものがあると思う。

ただ、子供が高校生って言うには大人びているから違和感しかないのだけど。

エヴァンはそれでも他人に人生を書き換えられたことで少しだけ社会性が身についていった感じにも見えた。自分じゃない何者かになりたいということが叶ったということか。