【映画 窓際のトットちゃん】感想。原作を読んだのはいつだろう?

1981年発行

小学生時代に発行され、瞬く間にベストセラーとなった作品だったわけで。当時、図書館に毎日通っていた私が読まなかったわけがないはずで。

でもね・・・ほとんど覚えてないわけで。

裕福な家庭の子

原作を読んだ時、黒柳徹子さんのことは知っていた。

当時は「ザ・ベストテン」全盛期。この人の自伝なんだってことは認識していたが、裕福な家庭な子という感じは受けなかった。

映画では、やっぱり「絵」を通して、トットちゃんが当時としてはかなり裕福な家庭な子供であることが認識出来た。

小学1年生のトットちゃんが5年生になるまでの5年間だったんだね。

その間に日本は戦前から戦中になっていく。

戦前。彼女は一人っ子で両親の愛情を一身に受けた少女。

今だったらADHDですね。とかって分類されたのだろう少女。教室で落ち着いていられない彼女は「トモエ学園」に転校する。大井町線。私の知っている世田谷線のような感じ。

懐かしさもある。絵も「窓際のトットちゃん」のモチーフだったいわさきちひろさんの雰囲気を受け継いだような感じ。

トットちゃんのご両親は厳しさもあるけど、それでもやっぱり裕福な感じで子育てをしていた感じで、どこか「わがまま」な印象を受けたが、それは自分が大人になったからか。

自分がトットちゃんと同世代の時には感じなかったような感情が様々あった。

同級生の泰明ちゃん。小児麻痺がある彼に興味津々で「どうしてそんな歩き方なの?」とか。私は、小学生の頃、チンドン屋さんか何かを見て、指を指して何かを言ったのだろう。それを怒られた記憶がある。指を指したことに対しての叱責だったのか。それとも奇異な人に対しての私が発した発言に対してだったのかわからないが、それ以降、そういうことを言ってはいけないのだと学んだ。

差別もしない。区別もしない。それがいいことなのか?と考えさせられる行動をトットちゃんは起こす。

泰明ちゃんが「出来ない」と思っていることに対して、「出来る」を押し付けて行く。今の時代だったら、親が飛んで抗議しそうだが、泰明ちゃんのお母さんは自分の子供が他の子供のように服を汚して帰ってきたことに感動する。

「出来ない」と自分の世界だけで生きていた泰明ちゃんの世界を広げたとは言えるが、一つ間違えばのようなこと。トモエ学園という大きな器の中できっと先生が影ながら見守っていたのだろうが。

トイレにお財布を落としたトットちゃん。先生に相談する前に自分で行動して、トイレさらいを始める。それを見た校長先生は「戻しておけよ」と言うだけでやっぱり見守る。

手伝うわけでもない。だからと言って行動に対して文句を言うわけでもない。こんな大人いる?ってくらい大きい。

でも、先生が発したちょっとした悪気のない発言でもそれはどうなのかと叱責する。

そんな先生の姿が記憶に残っていることが、後年の黒柳徹子さんを形成しているということなのか?

泰明ちゃんが亡くなる。何があったのかはわからない。

その前にお祭りで両親に泣いてひよこを買ってくださいと言う。お祭りのひよこはすぐに死ぬことを大人は知っているから駄目だというが、それに対して泣いてお願いして買ってもらう。

が、ひよこはひよこのままで亡くなってしまう。

この時にトットちゃんはきっと「死」ということを知っていた。だから、泰明ちゃんの「死」についてもかなり深く悲しむ。

これを境に一気に戦中に突入し、トットちゃんにはお姉さんになって疎開する場面になる。

「続 窓ぎわのトットちゃん」が出版されているらしい。

黒柳徹子さんは黒柳徹子さんではあるのだけど、もう一度、「窓際のトットちゃん」から読んでみようかな。