【目先の初任給よりも大切なこと】今の自分の価値を見誤らないようにしないと続かないと思うけどね

あの頃の自分に言いたいこと

中高の頃って、決まって言われたことは、「手に職をつけた方がいい」だった。

今の自分もきっと同じことを言うと思う。社会を知らない人間にとってその言葉はあまり身に沁みることはなく、勉強しておけばどうにかなると、私は勉強することを選んだ。

でもね、勉強をしたところで、「東大」に行ったところで、手に職はつかないのよ。しかも中途半端な成績だったら余計に。

中学生に戻れるなら、私は工業高校に行きたい。そこで手に職をつけたい。

商業高校でも簿記を勉強してそこから会計士までいけたら手に職かもしれないけど・・・最終的に短大は商科に行ったけど、簿記なんて知らないのに商科で簿記論なんて宇宙語にしか聞こえなかったわ。

情報処理

そう、商業高校に当時も情報処理課があったと思う。でも、その頃って何を教えてたのだろう?

結局、自分は短大でOAという授業でBASICを習ったのだけど、フローチャートの読み方くらいやったのだろうか?でも、教科書をインプットするだけだったのに、なぜか成績が「C」だった。他は出席日数がギリギリでも「A」か「B」だったのに・・・

世間はバブル景気で短大2年になってほぼ学校に行ってなかった自分が久しぶりに行ったら、みんな「リクルートスーツ」に身を包んだ同級生がわんさかいた。でも、その頃、まだ「リクルートスーツ」って名前はなかったと思うのだけど。

まぁ紺のスーツのイメージだった。

私はフリーターのような生活をしていたのだけど、何をしたいとかなくて、就職指導室に行って求人票を眺めていた。

そこで目についたのが多分「16万5千円」という給料だった。県内の企業は12万、13万が普通だったのだけど、都心の会社はプラス3万もするんだってことで、そこにした。

都心だからね、結局お金かかるわけなのだけど、都心に興味はまるでなかったのだけど、眺めた日に決めて、翌週には面接だったように思う。

でも、リクルートスーツなんて持ってなかったし、就職指導なんて受けてなかったから(やってたのだろうか?)、小田原のデパートで結婚式に着ていけそうな淡いピンク色のカクテルスーツを購入した。

面談は高田馬場駅から明治通りを行ったところだった。まだそのビルはある。会社はないけど。

面談と小論文だったように思う。小論文はなぜか時事ネタとして当時の事件を書いた。

合格だった。まぁバブルの真っ只中だったからね。だからと言って、私はそれ以上の面談は受けなかった。同級生は数社面談を受けて受かったと言っていた時代だった。

私が入社したのは今でいうところのSES(システムエンジニアリングサービス)だった。派遣契約や請負契約など様々な契約形態の業務形態だったから、先輩社員という人たちは全員がそれぞれの現場に行っていた。でも、企業意識のためなのか、月に1度は帰社日というものがあり、狭い社内がいっぱいになっていた。

私には同期が3人居た。最初の1ヶ月はそんな会社の社員向けの研修をしている会社に行った。自社に研修する力がない会社がたくさんあったのだろう。たくさんいた。

そこでCOBOLを学んだのだけど、私の職歴にCOBOLはない。

その後、会社は研修のためのお金はかけてくれた。次は自宅とは逆方向にある浮間舟渡まで行って第二種情報処理の資格取得の研修を義務付けられていた。が、ここは、仕事終わりに行かなければいけなかったように思う。だから、高田馬場から浮間舟渡までも1時間かかるのに、帰るのは2時間かかるという最悪な感じだった。

でも、企業をするとあの頃社長はどう考えていたのだろう?と思う。多分、私が入社する前の年まででバブル景気は終わっていたのだ。

私が入社した年は、損失補填という言葉が流れ、バブル景気は終焉になっていただろう。だから、私の同学年で4年制大学に行った人は最初の「氷河期」と言われた就職難民だ。

会社に入社したはいいけど、バーターで行ける現場はなかった。だから、半年以上、買殺し状態で何をすることもなく居た。半年くらいした頃、社長がCADオペレーターの仕事をもらってきた。そこでやっと仕事をすることができてホッとしたのを覚えている。

さすがにタダ飯はね・・・

確か半年くらいでグループ会社と合併をしたような。それでそこでやっていたCADオペの仕事を自分もすることになったような。当時、うちの会社にはオフコンと呼ばれるようなものしかなくて、パソコンがなかったから。

年が明けた頃、やっと外の会社に行けることができた。そこで雑務をさせてもらって、いろいろ覚えた。一太郎も使い方がわからなかったような状態だたけど、良き人たちだった。

合併して1年で私は別の会社に引き取られた。その後、会社が倒産したらしいのだけど。

引き取られたというか、CADオペの仕事を出してくれていた会社に引き取ってもらった。そこで私は社会人として一から教えてもらうことになる。

今だったら、ハラハラな感じだったけど、でも、そのおかげでその後の社会人として少しだけまともに生きられたように思う。

そこは小さい商社だった。そこはまだバブル景気の頃の余波がもらえる業種だったらしく、CADオペの仕事もかなりあった。土木系の仕事は続いていたからね。

そんな感じでその会社では人がいなかったから、総務から庶務からいろんな経験をさせてもらった。

でも、4年で辞めることにした。「石の上にも3年」は居たし、事務職を続けたとして、給料が上がる未来が見えなかったからが一番大きかった気がする。

仕事を辞めてすぐに私はなぜかゴルフ場でキャディをした。半年ちょっとで現実に戻って東京に戻ってそこから派遣会社に登録をする。

その頃の派遣会社はパソナかおー人事かって感じで私はおー人事のスタッフサービスに登録した。そこでAccessでちょっとした登録フォームを作成したりして、システム化をすすめた。

そこからしばらくはAccessVBAを独学でやって1年目の研修がやっと生きた感じだった。

でも、それ以上を目指したいとやっとソフトウェア会社に入社した。そこでプログラムを一から教えてもらった。が、まぁ会社という枠組みがほんとにダメで1年で退社した。飲み会とか・・・無理でさっさと社長に目をつけられていたし。

その後、Web系の勉強をし、その後そろそろ四半世紀になるのか!?この年齢になっても仕事をいただけている。

今、初任給が30万になるとかってあるけど、身の丈にあった給料の場所が一番だと思うよね。自分の身の丈以上の場所は結局合わなくなるから。

私は結局最初の会社の時は額面は16万5千円だったけど、それは手当含むって感じだった。確か、住宅手当が1万5千円で、家賃が5万円だった。ってことは・・・11万くらいで、東京の都下とは言え生活が楽なわけではなかった。まぁすぐに高田馬場のお隣でアルバイトするのだけど。

次の会社でも、住宅手当とかなくなっていたけど、多分25歳くらいで20万円にはいってなかった気がする。24で結婚出来たからそれで良かったのだけど。

最初の派遣会社は時給1500円とかだったんだろうなぁ〜。これでやっと20万オーバーかぁ〜。

でも、給料が良くてもしたくないことはしない主義だったから、お金で苦労をしたとは思ってなくて。アルバイトすればいいやとかってすぐにバイトを出来たから。

お金って追いかけなかったら廻ってくるって思っているタイプで。12年前にパートで入った会社はフルタイムで10万。しかも自家用車で平気で現場に行かせるし、そのガソリン代も請求させてもらえなかったな。でも、なんか良い経験をさせてもらったと思ってて。

職務経歴書にはお金とか書かないし、やった事実が書ける。だから、そこで初めてC#でプログラムを書くのだけど、習うより慣れろで、最初はまるで意味不明だったけど、2年もいれば慣れるし、自分がメインになってたりするわけで。社員でもないのに。

その職務経歴書がかなりその後の人生に有利で、8年前から都心で仕事を探し始めたのだけど、書類選考で面談に行った会社で落とされたところはなかったな。リクルートスタッフィングで行った場所は、相性がまるで合わなくて3ヶ月で辞めてたけど。

その後はSES系の会社で仕事をするようになって1年くらいになった。

そして、コロナ禍でリモートワークが主流になって、今の現場には最初に1度パソコンを受け取りに行ったっきりで、その後行くこともなく仕事は順調でなぜか1年半を終了する。

お互いに可もなく不可もなしなのだろう。また1年延長がもらえた。

給料よりもやりがいをもらえているように思える。やりがい搾取とかって言葉もあるけど、ほどほどに忙しく、ほどほどに暇なのだ。

今月はこの1年半で2番目に忙しいと思う。自分のペースだけじゃない時、「忙しい」になるのだと思うけど。

そう、単金も勝手に上がってくれたというか、多分、数年前からこの単金だったのかもしれないけど、SES会社に搾取されていたのだろう。私が急にすごく出来るようになったわけでもないし、求めれていることは変わらないわけで。

フリーランスで契約するなら、自分で単価を決めるより、「最大で」って言った方がいいかもしれない。めっちゃ、搾取されているから。

だから、こちらに用はないのに、しつこいくらいに「今の状況を教えてください」ってくる。持ちつ持たれつだけどね。面識もないのに勝手にメッセージ送られるのもほんとうざいんだけど。使い方次第ってことです。

長い・・・まぁ過去を思い出せるうちはまた書いてみよう!