【映画 月】社会問題として重い題材

長いけど内容は複雑

石井裕也監督作品として2週間後には「愛にイナズマ」があり、wikipediaには「月」は原作の辺見庸さんのところにも石井監督にもない。

この作品の題材自体が、タブーとされていることなのかもしれない。

難しい

東日本大震災で大きな被害を受けた石巻市出身(両親も)ではあるが、あふれた「耳障りのいいことばだけがもてはやされ、不謹慎と非難されそうな言葉は排除される」言説に強い違和感を覚え、口を閉ざした。それを破ったのは「語ってはいけないものを語ること」を意識した「フィズィマリウラ」の詩(『眼の海』所収)だった。彼は次のように言う「悲劇にあって人を救うのはうわべの優しさではない。悲劇の本質にみあう、深みを持つ言葉だけだ。それを今も探している」と。 by wikipedia

これは作品の中で二階堂ふみ演じる陽子が宮沢りえ演じる洋子の作品に対して感想として伝えている。

でも、この映画の根底にあるものはきっとこれに凝縮されているのではないのだろうか。

作家として受賞経験がありながら、書けなくなったけど、仕事がなくて、就けたのは重度障害者施設だった。

「なぜここに来たのですか?」に対して「ここしかなくて」は、ここしか採用されなかったということに解釈したけど。使命感があって「私にはここしかなかった」とは解釈出来ない感じだった。

この作品は「やまゆり園」がなければ、きっとこういう構成にはなっていないのだろうと思うし、題材になることもなかったのかもしれない。

磯村勇斗演じるさとくん。そっか、実際の植松死刑囚と名前が同じなのか。

洋子とオダギリジョー演じる昌平夫婦の問題。

二階堂ふみ演じる陽子の持っている闇。

そして、磯村勇斗演じるさとくんが事件を起こす思想にまでなってしまったもの。

難しい。

近年、高齢化で高齢者施設で残酷な事件が表面化してきている。そう、表面化しているだけで今起きたことではないと思う。昔からきっと隠されてきたそんなことはあったのだろうと。でも、隠しきれなくなったのか、とりあえず、
「語ってはいけないものを語ること」
をする人が出てきたのか。

さとくんは最初から人を殺害する思想であったわけではないのだろうと。施設の中では常態的な虐待があり、職員内ではいじめが横行する。

社会の縮図

その通りなのだろう。今まで知らなかった世界に自分の居場所を求めて(仕事をするってそういうことなのかなって)行った場所は自分が想像したことも想像したくもない世界で、そこに慣れることが幸せなのだろうけど、それは自分を殺すことにならないのだろうか?

使命をもって従事している人もいるのかもしれない。でも、現実は残酷だと思う。

施設で働くということは他人の人生を自分の人生の時間でカバーする仕事というのは理想か。

私には1ミリ秒もないから絶対に選ばない。お金がどんなに良くても自分の居場所には出来ない。

でも、施設で働こうとしている人はそこに居場所を求めようとする。自分でも出来るかもと思う。でも、他人の人生のフォローってそんな簡単じゃない。

だから、自分を殺すか、最近の人は相手を殺してしまう。

自分がその場から居なくなればいいのに、自分がその場所に居るために相手を排除してしまう。

洋子は「これは変だ」と声をあげるが、非正規雇用で何を言っているんだと煙たがられるだけだ。

都道府県の運営している施設とは言え、最低限のことをすれば良いと思っている。それはきっとリアルで今この時にも存在していると想像してしまう。

そういう場所が必要。重度障害があっても出産を選択しないということは重度障害者だったらという不安があるからだと言われる。重度障害があっても生まれてきてくれるだけで良いと心から言えるのは家族だろうけど、自分たちだけで育て生活の面倒を見るのは大変になるというのが現実だ。

そこで待ち受けているのがこういう施設だとしたら、躊躇するのは普通じゃないのか?

本当に難しい問題しかない作品。言葉を選ばないと自分の感想で知らないで他人を傷つけてしまう危険性さえもある。

自分には無理と全員が言ったら、誰もサポートする人が居なくなってしまう。そして国外に人材を求める未来がすぐそこに来ている。なぜ日本以外の国の人にできることが日本国内では出来ないのか。それこそが教育を間違えてきているのではないだろうか。

さとくんのしたことは死刑判決が確定している。

ではさとくんをこういう思考に向かわせた人は今、何を思って生きてる?