「ラプラスの魔女」の次は・・・
去年の暮、映画化のニュースがあったようだが、あまりにも忙しかった自分はそれを知らなかった。
先月だと思う。
久しぶりに読書をしようと最初に手に取ったのが「人魚の眠る家」だった。
映画化されると知らずに
東野圭吾作品は、映像化を意識した書き方をされているから、読み終わった後、映画化されるだろうなって思った作品。
でも、誰がどうキャスティングされるだろう・・・それが楽しみでもあった。
そして
一番の軸となる夫婦が篠原涼子と西島秀俊。
いい年齢なのかもしれない。
篠原涼子の妹役をするのは誰なんだろう?
そして一番難しい娘役、息子役、姪っ子役は?
まだ発表されてない。
東野圭吾の言葉
「こんな小説を自分が書いていいのか?今も悩み続けています。」
これまでの作品とはちょっと違う社会的な意味のある作品だと思う。
人は誰しもエゴにまみれて生きている。それを表に出さないように努力しながら。
それでも自分の子供、肉親が絡むとエゴが表に出てくる。
それはいつ何時自分が豹変してしまうかなんてわからない。
東野圭吾氏は30周年でこの作品を世に出した。
それはきっとすごく意味のあることなんだと思う。
篠原涼子演じる母親は問いかける。
「娘を殺したのは私でしょうか?」
小学校受験を目前に控えた夏の日、突然脳死を告げられる。
「脳死」とは?
日本では1997年に「臓器移植法」が施行されている。
そして2010年に改正され、それまで年齢制限となっていた15歳未満の臓器移植が可能となった。
このことを普段の生活で気にしている人はいるだろうか?
私は親が「献体」をしていたこともあり、臓器移植には前向きで免許証の裏にはいつも意思表示を記入している。
それについて夫に何かを言ったことはない。
仮に自分がその立場になって免許証にあるその記述でそれを尊重するだろうと思っているから。
きっとこの作品の母親である人間も自分だったら「どうぞ」と言えたのだろう。
しかし、自分の子供となると違うのだろう。
現実に小児病棟は提供を待っていた子が提供する側になる皮肉なことが起こりようなものだが、移植数が伸びていない。
そこには「提供される」ことを望むことと「提供する」側になることには拒絶反応があるからだろう。
それを誰が責められるだろうか?
本の中でも篠原涼子演じる母親の葛藤が書かれる。
この本は現在の抱えているそういう問題を書いている。
何が正解で何が間違えだなんてことではない。
ただ、いつも思うことだが母親という存在は子供に対してそこまで精神的奴隷になれるのだろうか?
自分のことは考えずただひたすら子供に愛情を注ぎ込む。周りがどう思うとかは関係ない。
自分の自己満足なのかもしれないが、とことんやってしまう。
そして父親という存在はなんて薄いのだろうということもわかる。
と小説を読んでると思うのだけど、どういう切り口で映画は出来上がるのだろう?
堤幸彦監督だからズバっと切り込むのではないかと思っているのだけど。
11月の公開。あと半年。あっという間なんだろうな。